りずろぐ。

ぬるくやわらかく

りずろぐ。

加害者を糾弾できる人が怖い

 

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何か事件が起きた時、大声で加害者を糾弾する人たちがいる。

人でなしだ、異常者だ、こいつが死ねば良かったんだ、どうか厳罰を。

そんな声を聞く度に、見る度に、私は怖くなる。

 

彼らはきっと自分が加害者側になる可能性など万に一つもないと思っているのだろう。

私にとっては、加害者が起こした行動は決して他人事ではない。私は自分自身のことを「やりかねない」側の人間だと思っている。

今のところは、そういう欲求を抱いたことはないけれど。

 

「死にたい」と思ったことが何度もある。

つらいとき。苦しいとき。先々の希望が見えなくなったとき。この世からいなくなってしまいたいと願うことが今でもある。

 

私の場合、自暴自棄は内側へ内側へと向いていく。

けれど、これがもし外側に向かったら?

 

自分を追い詰め苦しめる人や社会に対して憎しみが積もったら。溜め込み続けたフラストレーションが抑えきれなくなったら。

きっと「死にたい」と望むのと同じように、「みんな死ねばいいのに」と望むのではないか。

 

自分を傷付ける方法を取るか、他人を傷付ける方法を取るか。そんなのは個人差、あるいは誤差でしかない。

幸い、内罰的な人間には救いの手を差し伸べようとしてくれる人がいることも多い。だが逆ならどうだろう。傷付けてやりたい、壊してやりたい、殺してやりたい。そう言う人間を助けようとする人が一体何人いるだろう。

 

やや語弊のある言い方だけれど、人間は正常な状態であれば他人を傷付けたり殺したりするようなことは望まない。

それを望み実行に移すということは、もう、脳が異常になっているということだ。そして、異常な状態で生きることはとてもつらいことだ。それほどの異常に至るまで、きっとすごく、ものすごくつらかったはずだ。

 

だからといって犯した罪を許すわけではない。罪は法に則って適切に裁かれ、罰を受け、償いを果たすべきだと思っている。

ただ、闇雲に厳罰を与えることが社会にとって良いことだとは思えない。どれだけ罰を重くして「やってはいけない」という抑止力をかけてもやってしまう、むしろ「やらざるを得ない」状態に陥ってしまった結果起きるのが犯罪だから。

 

加害者を激しく責める人は自分が加害者になることなんて全く想定していないのだろうと書いたけれど、ならば自分の家族や身内ならばどうだろう。自分の周りの人間は絶対にそんなことはしないと言い切れるのだろうか。

 

私には、親族に交通事故で幼児を轢き殺してしまった者がいる。

私が生まれる前のことなので聞き伝えでしか知らないけれど、それはそれは悲惨だったそうだ。家族がそれぞれの道で築き上げてきたものが全て失われたと言っていた。加害者家族として、当時小学生の子供まで毎日一緒に遺族のもとへ土下座しに行ったらしい。もちろん慰謝料も相当の金額だったとのこと。

 

しばしば「被害者やその家族の気持ちを考えても同じことが言えるのか」という批判をする人がいるけれど、そういう人のうちの何人が加害者や加害者家族の気持ちを考えたことがあるのだろう。

 

繰り返しになるけれど、私は決して犯罪を擁護するつもりはないし、被害者とその周囲の人たちの救済が何よりも最優先されるべきだとも思っている。

 

ただ、怖い。

容赦なく加害者を糾弾する人間が。

「一人で死ねば良かったのに」と言ってしまう人間の多さが。

 

運良く加害者にならずに済んで生き延びているだけの私には、いろんな悪条件が重なった末に罪を犯してしまった加害者の存在は、どうしても他人事とは思えない。

加害者の人生だって、紐解いていけばきっと元々は被害者だったのではないか。本人にはどうにもできない事情の積み重ねがあったんじゃないか。どこかの時点で何らかの救いがあれば防げたことなんじゃないか。そう思わずにはいられない。

 

だから私は自分の手が届く範囲で、誰も被害者にせず、加害者にもしないように生きていきたいと思う。

同時に、遠くで起きた事件に対して善人面して同情する素振りをしながら、その実エンターテイメントとして消費しているだけの人間は絶対に信用できないとも思う。