タイトル通りの話だし、いつもとはテンションも違うから、こういうのが苦手な方は遠慮なく去ってくれて構わないです。
いつもありがとね♡
今日は、亡くなった母方の祖父の誕生日。
そのせいか、ここ数日は祖父のことをよく思い出していた。
18年前の夏、祖父は亡くなった。
自殺だった。
自宅の梁にロープを掛けて、首を吊って死んでいたらしい。
当時、私は小学3年生だった。
午後の授業を終えて、帰りの会の開始を待っているとき、担任の先生から「おうちの人が迎えにきているから、すぐに帰る準備をするように」と告げられた。
父の運転する車に乗り、何があったのかと尋ねる私に、母は「家に着いたら話すから」と答えたきり、何も喋らなかった。
家に着くと、母は幼い私にもわかるよう、丁寧な口調で話してくれた。
祖父が亡くなったこと。
これからお通夜とお葬式があること。
学校はしばらくお休みすること。
黒い服を着ること。
母は泣くこともなく、淡々と話していた。
父は何も言わなかった。
ふたつ隣の町に住む祖父の家に行くと、既に近隣に住む親戚たちが集まっていた。
たくさんの大人が泣いている光景は異様だな、と思った。
知らない大人が私を呼び捨てで呼び、「こっちに来なさい」などと言われることがとても不快だった。
祖父はひとりで暮らしていた。
母の両親は、母が小学生のうちに離婚したらしい。
母と母の妹(私の叔母)は祖父に引き取られた。
母曰く「学校を転校するのが嫌だったから」という理由だそう。
なので、形的には祖父が男手ひとつで娘二人を育て上げたことになるのだけれど、実際はそんな美談でもないらしい。
祖父は、いわゆるアルコール依存症だった。
お酒を飲んで暴れることは日常茶飯事。給料日には有り金全部を飲み屋で使ってしまい、家にはお金を入れない。酔っては子供たちにも暴力を振るい、特に叔母に対する虐待は酷いものだったと、母からは聞いている。
やがて母が結婚し、叔母も同時期に家を出たあとは、祖父はひとりになった。
とはいえ祖父の姉を始め、親戚たちはほとんど近くに住んでいたから、孤独だったというわけではないと思う。
物心ついてから私が祖父に会ったのは、祖父が亡くなる数ヶ月前の数回だけだった。
というのも、その頃(もしかしたら今も)私の父は母に対して日常的に肉体的にも精神的にも暴力を振るっていて、その中のひとつに「母を親や親族に会わせない」というものがあった。
だから、祖父に会うことは父には秘密だった。
学校を終えて家に帰ると、祖父が車で母と私を迎えに来て、父の仕事が終わる前に家に帰る。
大工をしていた祖父の愛車は軽トラックだった。
祖父と何を話したか、私にはほとんど記憶がない。
私にとって祖父は「お父さんから会っちゃいけないと言われている人」「子供だったお母さんたちに酷いことをした人」という認識だった。
だから私は祖父とどう距離を取ればいいのかわからなかったし、父に隠し事をしているプレッシャーやら、生来の人見知りによる緊張やらで、とにかくいっぱいいっぱいだった。
それでも祖父は優しかった。
お酒でしゃがれた声で呼ぶ私の名前には、慈愛のようなものが込められていたと思う。
お菓子がたくさん入った缶製のバケツのようなものを買ってくれたことは、特に印象に残っている。
私の記憶が正しければ、生前の祖父に最後に会ったときのこと。
祖父は、行きつけのスナックのようなところに、私と母を連れていった。
そこで祖父が「この子が食べられるようなものを」と頼んでくれて、出てきたのがところてんだった。
ところてんを食べるのは初めてだった。ところてんは甘いものだと勝手に思い込んでいた私は、想像とかけ離れた酢醤油の味にひどく驚き、ひと口食べたきり「もういらない」と言って残してしまった。
それが、私にとって祖父との最後の思い出。
こんなことになるなら無理をしてでも全部食べればよかったと、今更になって後悔している。
次に見た祖父は、もう遺体だった。
安らかな顔をしていた。月並みだけど、眠っているようにしか見えなかった。
「これが人間の死体なんだな」と思った。
特に悲しくはなかった。
人が亡くなったという一連の状況に気圧されていたのもあるけれど、それ以上に「これでひとつ隠し事が減るんだ」という安堵があった。
とても薄情だと思う。ただ、当時の私は父からも母からもあらゆる方面で「お父さん(お母さん)には内緒だよ」と言われることが多くて、抱え込むのがとてもしんどかった。
それからは正直、私は子供ながらに祖父を恨んでいた。
祖父が亡くなった日は、私の誕生日の二日前だった。
だから当然、毎年やってもらっていた私の誕生日会はなかった。
それでも、おそらく両親が前もって用意してくれていたのであろうシルバニアファミリーの何かをプレゼントにもらった記憶がある。
祖父のお葬式にはいろんな人が訪れ、母はいろいろな言葉を言われたのだと思う。
母も相当擦りきっていた。
行き場がなく奥の部屋の隅で絵を描いて過ごす私に「あんたもここに来て一緒に頭を下げなさいよ!あんたのせいでお母さんが恥をかくのよ!」と怒鳴った。
戸惑いはしたけれど、これはいつもの母ではないと直感で察したことから、怒鳴られたショックはそれほどなかった。
祖父が亡くなったことで、何日学校を休んだかは覚えていない。
でも、普通の忌引よりも長く休んだのは確かだった。
久しぶりに登校した私は勉強にも、友達の話題にもついていけなくて、とてもつらかった。
家では相変わらず両親が殺伐としているし、学校にも居場所はないしで、私はストレスから歯が痛むようになった。
一度、学校で耐えきれないほど痛み出し、その日仕事がお休みだった叔母に迎えに来てもらい、そのまま歯医者に行ったことがある。
けれど虫歯があるわけではない。その時、いつもどんなときでも私の味方をしていてくれた叔母に、冗談まじりながらも「仮病使ったんでしょ?」と言われたことが、何より一番悲しかった。
そういったあれこれの全てが、あの人が死んだせいなんだと、私は思っていた。
祖父が亡くなってから3年後くらいまでは、お線香を上げて手を合わせたり、時々お墓参りをしたりしていた。
人が亡くなった後のしきたりは、そのときに学んだ。
その後、またいろいろとごたごたがあって父は仕事を辞め、私たち家族は遠い別のところで暮らすことになった。
遺影やら位牌やらは長女である母が引き取って新居に持っていったはずだけれど、新居にそれらが設置されることはなかった。
お墓参りは、叔母が今でも続けているらしい。
こうして時々祖父のことを思い出すとき、祖父の人生って何だったのかなと思う。
これが、家族を悲惨な目にあわせた男の末路なんだろうか。
祖父がどうして自殺したのか、私にはわからないし、知る術もない。
そもそもなぜ祖父は家族に暴力を振るっていたのか。なぜお酒に溺れてしまったのか。何が祖父を死に追いやったのか。
母や叔母から聞かされた話による祖父は悪人だったけれど、亡くなったあとは「死んだら良い思い出しか思い出せなくなるものね」と言う。
「じゃあ死んだもん勝ちじゃない」と斜に構えたくもなるけれど、あのとき私に接してくれた祖父からは、決して表面的ではない優しさを感じたのも確かだった。
だから私はいまだに、祖父に対して何を思えばいいのかわからない。
祖父が亡くなったとき、叔母はずっと「自殺なんてずるいよ」と言っていた。
自殺はずるいことなんだろうか。その疑問はずっと頭に残っている。
祖父が亡くなったことについて、かつて結婚を控えていた叔母は、結婚相手の母親から「片親の上に自殺だなんてみっともないんだから、口外しないでちょうだい」などと言われたらしい。
「死んでもなお迷惑を掛けるなんてね」と言う叔母は、とても悲しそうな顔をしていた。
母はといえば、何年後かにたまたま好きになった有名人が、祖父と同じ誕生日だったらしい。
「あ、この人、死んだ父ちゃんと同じ誕生日だ」と言う声には、祖父を家族として、親として、当たり前に受け入れているような温かみがあった。辛かったことも、悲しかったこともなかったかのようだった。
仏様になった祖父に手を合わせることはしないけれど、これが「死を乗り越える」ということなのだろうか。
私は今でもところてんが食べられない。